2年生 台湾修学旅行🍍

修学旅行は無事にすべての行程を終えることができました。

現地ガイドや同行していただいた添乗員の皆さまには本当にお世話になりました。1年以上前から計画いただいたおかげで、充実した学びある修学旅行にすることができました。参加生徒にとって高校生活での大きな成長のきっかけであり、何ものにも代えがたい貴重な経験となりました。また、学校や家庭で待っていてくださった皆さまにも支えられ、最後まで無事にやり遂げることができたのだと思います。ご心配をいただきありがとうございました。

台湾修学旅行の参加生徒は無事にセントレアに到着しています。

 

桃園国際空港に到着しています。

今から全員で出国審査に向かいます✈️

 

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並んで展示されることの多くない故宮博物院の双璧をなす至宝だそう。

 

ともかく石を白菜と角煮にする人間のはてしない想像力🥬

コウモリとか可愛すぎて❕

 

修学旅行4日目  

いよいよ今日は修学旅行の最終日です。

ホテルチェックアウトを終えて全員そろって出発です。

(参考)為替レート 1 元=4.63円(2023年10月26日現在)

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修学旅行3日目 参加生徒はホテルに戻り、明日のチェックアウトに向けて荷物の整理をしています🍍明日はいよいよ最終日ですが、帰宅するまでは気をつけて研修していきたいと思います。よろしくお願いします。

 

 

今日はホテルのある台北から 1 時間ほど移動し台湾東北部にある基隆に向かいました。基隆は周囲を山に囲まれた自然豊かな海の街で、17 世紀にスペイン人が要塞を築いたことから台湾北部の重要な拠点となりました。深く入り込んだ天然の入り江を整備した基隆港は古くから台湾の玄関口だったそうで、太平洋戦争後に日本への引き上げ船が出たのもこの港です。現在は高雄に次ぐ台湾第 2 位の貿易港で、タンカーやコンテナを積んだ貿易船、外国へ向かう大型客船などが停泊しており、国際的な港湾都市の開かれた雰囲気が漂っていました。

 

  天灯上げ①   天灯上げ②

 

 

 

九份と「地域の持続可能性」のこと🧋

もともと九份は山間部にある林業中心の地域でしたが、19 世紀末に金鉱の採掘が開始されたことで徐々に発展し、日本統治時代にその最盛期を迎えます。しかし、太平洋戦争後の閉山によって急激に人口も衰退し、台湾の人たちにとって忘れ去られた存在となっていたそうです。そんな町が再び脚光を浴び始めたのは、映画のロケ地や企業広告に町の風景写真が使用されるようになったからでした。周辺市街地から観光客が訪れるようになり、これに伴いカフェ、飲食店が急速に増加し観光地化しました。また、海外アニメを全面に出した宣伝活動で国内だけでなく海外の知名度をあげ、九份はインバウンドの重要な資源となったのです。そのなかで、鉱山ラッシュからその衰退までを経験していた町の人たちは、ブームを一時的なもので終わらせないことの重要性を理解していました。そして一時的なのものに過ぎないブームを冷静に分析し、地域のために行政や国の観光担当、大学の専門家を交えて、持続的な観光産業の創造に取り組み始めたのです。それは景観の保存、駐車場や公園など観光地の公共サービスの充実、住民と専門家からなる委員会の設置など多岐にわたるものでした。また住民自身もボランティアからなる清掃活動を町全体で行う組織を結成しました。ここには人口減や限界集落の問題を抱える私たち日本における地域政策と同じ課題があるといえます。九份で私たちは、地域のための事業を実現していくには、行政のインフラ整備やPR活動などのリードはもちろん、地域でのルール作りや働き場所の確保、後継者の育成や伝統を残す仕組みづくり、国によるインバウンドのための観光業誘致など様々な立場から協力することで地域の資源が持続的に活用されていることを知りました。そして、その中心にあるのは地域住民であり、町の美化やボランティアなど、彼らの理解と協力によって観光資源の魅力が維持されていることを学びました。

 

 

修学旅行3日目 体調不良なく、みんなそろって朝食会場に集合しています。

(参考)為替レート 1 元=4.63円(2023年10月25日現在)

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修学旅行2日目 本日の日程を終えホテルに戻っています。体調不良もなく活動することができました。

 

修学旅行2日目
2日目はホテルのある台北から台中へとバスで移動し、台中市内を巡りました。

 

防災・減災学習と遺構保存のこと

「921 地震教育園区」は、1999 年 9 月 21 日に台湾中部を震源として発生した大地震をテーマとした施設です。強烈な地震による断層のずれ、倒壊した中学校舎、河床の隆起などが保存され、この地震の経験を世代をこえて共有していくことで、人間と自然とが共存する関係を目指しているとのことでした。台湾の地下では、海洋プレートであるフィリピン海プレートの下にユーラシアプレートが沈み込んでいます。ユーラシアプレートは日本付近を含む大部分では厚く比重の小さい大陸プレートですが、南シナ海では薄く比重の大きい海洋プレートに変質しています。このため、日本の南海トラフや琉球海溝などとは沈み込み方が逆になっているそうです。そして、台湾はもともとフィリピン西部にあるマニラ海溝の一部だったのですが、約 400 万年前ごろに北端部分が中国大陸の厚い地殻にぶつかり始めました。これによって海底が隆起し、次第に台湾島ができたのです。つまり、台湾の形成とプレートの動きは不可分なものであり、台湾の人々の日々の暮らしには日本人と同じように激しい地震活動があるのだと感じました。また人々の記憶にある地震の経験は、復興が進み取り壊されていく建物とともにあります。日本の「震災遺構」と同じように被災した建物の保存やそこでの学びを通じて、私たちには社会全体で地震の教訓を伝えていく責任があると感じました。 ちなみに、大地震が発生した夜、日本の国際緊急援助隊が最初に台湾入りし災害現場に急行したそうです。そのため台湾の発行している記念郵便切手の 12 元切手には日本から派遣された救助隊員が描かれていました。

 

奥深い客家料理の味付け

台湾では、特に台北近郊や南部の高雄などで「客家(はっか)料理」に出会うことがあります。現在も客家語を話すなど独自の文化を継承している客家の人々が伝統的に作ってきた料理のことで、素朴な素材を多用し、保存食を上手に調理してしっかりとした味付けとなっているものが多いのが特徴です。彼らは、大陸華北地方をルーツに持ち、遠い昔、秦代の頃から異民族の過酷な支配と戦乱を逃れるために広東省や広西省などへと南下し、やがてアジア各地へ離散していきました。その一部は台湾に辿り着き、北部では主に桃園県や新竹県、苗栗県、南部では高雄などに住むようになりました。その生活の場を移してきた歴史が、保存しやすい漬けものや乾物などを用いた料理を多く生み出しました。また、移民という立場にあった彼らは、台湾でのさまざまな困難を乗り越えるため、より環境の厳しい山岳地帯に住み、過酷な労働によって生活の糧を得てきました。そこで山菜を乾物や漬けものなどの保存食とともに使った味の濃い料理が好まれてきたのです。つまり客家料理とは、厳しい歴史を背負って生き抜いてきた客家の人々の苦難の証(あかし)といえるのです。たしかに実際に食べてみると、塩味や油味が強く全体的に味付けが濃いものが多いのです。しかしその一方で、スープなどはあっさりと出汁を利かせているので、そのバランスが食事全体に調和をもたらした魅力のある料理でした。素材の旨みを上手に引き出す客家料理は、一度食べるとやみつきになる美味しさで、修学旅行の中でも忘れ難い思い出の味になりました。 

(参考)為替レート 1 元=4.64円(2023年10月24日現在)

 

修学旅行2日目 朝から台中を目指して出発です。

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修学旅行1日目  参加者に体調不良はありません

 

楽しい楽しい小籠包のこと🥟

やけどを恐れながら蒸籠を慎重に開け、湯気の向こうに透き通る皮に包まれた小籠包を見つけた時の驚きは誰もが心に秘し隠しますね。でも、それを箸で持ち上げた時に発見する繊細なひだで留められた美しい姿への感動は、もう抑えることの難しいものです。そもそもどうしてこの楽しい小籠包が台湾を代表する食べ物になったのか、そこには台湾の歴史が深く関係していました。1945 年に太平洋戦争が終結し、台湾を統治していた日本人(約 30 万人)は引き揚げ、それと入れ替わるようにして中国大陸からやってきたのが蒋介石率いる国民党の百数十万人の人々でした。これら戦後に移住してきた人々の出身地は広大な中国全土にわたり、それと共に、台湾で中国各地の特色を備えた料理文化が花開いたのです。中国料理には日本でもよく知られる広東料理や四川料理がありますが、ほかにも山東料理、江蘇料理、浙江料理、安徽料理、福建料理、湖南料理があげられています。例えば刀削麺や水餃子・肉まんなど小麦粉を使った料理は中国北方の山東料理で、唐辛子や花椒を効かせたスパイシーな料理は四川料理、フカヒレやチャーシューなどは広東料理です。台湾でもっとも古い小籠包のお店はこのなかで、上海や蘇州・杭州を中心とした「浙江料理」のお店であり、本来は小籠包も浙江料理に含まれるのかもしれません。しかし実際には太平洋戦争後になってから小籠包を売ることを移民仲間に勧められて始めたのが「台湾小籠包」の人気につながったのだそうです。つまり小籠包をはじめとして台湾料理とは他の文化の流入を受けながら絶えず更新されているものであり、今なお活発に躍動する人々の交流によって生み出されている台湾文化の一つの表れといえるものでした。

 

他民族多言語多様性❕ SDGsチャイニーズタイペイ🇹🇼

空港から台北市内に移動し、はじめに訪れた龍山寺です。ここは萬華地区と呼ばれる市内でもかなり古い街で、薬草街、骨董街、伝統市場などが軒を連ねます。駅やお寺の周辺はおしゃべりをしたり、将棋をしたりするお年寄りの方で溢れ、濃厚で独特な下町の風情にのまれながら“台湾”を見られる絶好の場所でした。というのも台湾は日本の九州ほどの小さい島ながら多民族国家で、そのエスニックグループには千年以上それぞれ独立した言語と文化で暮らしてきた 16 族にも及ぶ「原住民」と表記されるアウストロネシア語族 (マライ・ポリネシア語族)と、客家人や清代に中国大陸から来たホーロー人、1949 年以降に中国大陸から移住した「漢人」と呼ばれる人々がいるのです。そのため、この街で生活する人々の会話にはそれぞれ異なる言葉を聞くことができるのです。龍山寺も清代(1738 年ごろ)に、福建省から渡ってきた人たちによって創建されたもので、背景には当時の荒れた土地で「三在六亡一回頭」(移民してきた 10 人のうち 3 人が残り、6 人が死亡、そして 1 人は帰国)と伝えられている極めて困難な状況を生きた人々の生活がありました。そしてそのコミュニティの中心となっていたのが龍山寺だったのです。美しく独特な景観の龍山寺には、移民たちの日々の暮らしの切実な想いが込められ、今もなお彼らの苦しい時代が記憶されているのです。また、彼らはその移民としての歴史の中、助け合うことでお互いに結び付きを強め、独自の文化を誇りをもって守ってきたのです。

 

飛行機の窓からは、青い海原にサンゴ礁の輝く南西諸島と、その先にある台湾島へと連なっていく先島諸島の美しい琉球弧の島嶼群(とうしょぐん)を眺め、日本と台湾との地形的なつながりを実感しました。

到着した台北の桃園空港は台北市の西約 40km に位置し、3つ目の建設中ターミナルを擁する台湾最大の巨大国際空港でした。この空港は、日本でも話題になっている台湾製電子機器メーカーの輸出拠点となっており、香港や上海、仁川と並ぶアジアの拠点空港の活気ある現状を目の当たりにすることができました。

 

 

(参考)為替レート 1 元=4.63円(2023年10月23日現在)

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修学旅行 出発式 参加者に体調不良はありません。

台湾へのフライトに向け、セントレアに集合しました。すでに全員そろって保安検査場を通過し、搭乗口で搭乗開始を待っているところです。いよいよ今日から4日間の修学旅行が始まります。台湾では、現地でしかできない発見を通じてたくさんのことを学んできたいと思います!皆さんよろしくお願いします!!